テーマが大きすぎるが、こういう話もありかな、と思って。 愛という言葉は、あまりに大きく、そして少し青くさい。 若いころには深くは考えなかったが、 歳を重ねると、静かに胸の内に疑問が広がり、 ときどき、ふと浮かび上がる。 ――愛とは何なのか、と。
難しく考えることはない。 ただ「好きで好きでたまらない」という気持ち。 その結果、相手のためなら何でもしてしまう。 そんな感情を、私は“愛する”とひとまず呼んでみたい。
そう考えると、 結婚した人、している人―― そのすべてに「本当に愛していますか」と尋ねたら、 どんな答えが返ってくるのだろう。
「運命の人」という言葉がある。 本来、それは結ばれる宿命にある最愛の人を指すのだろう。 けれど現実には、「結婚や出会いのタイミングが合った人」が “運命の人”と呼ばれているようにも思う。 だとすれば、運命の人と最愛の人は、 必ずしも同じとは限らない。 愛する人と結婚するとは限らない。 人生とは、そういうものかもしれない。
結婚や恋愛を少し離れて振り返ると、 子どもの頃から学生時代、社会人に至るまで、 誰にでも“好きだった人”は何人かいたはずだ。 時間をかけて思い出してみると、 次々に顔が浮かんでくる。
思い返すたびに感じるのは、 「いつも誰かを好きだったな」ということ、 そして「子どもの頃の愛は、なんと純粋だったか」ということ。
子どもの頃の“好き”には、理由がなかった。 容姿や性格、しぐさ、能力に惹かれたのかもしれないが、 それは理屈ではなく、「好きだから好き」だった。
それに比べて、大人の愛には、 どうしても相手の気持ちや立場、 あるいは現実的な条件が関わってくる。 好きになるのは自由でも、 相手の「イエス」がなければ成り立たない。 地位や収入、境遇や背景―― そうした要素をまったく無視することもできない。
だから思う。 あの頃の愛は、なんと純粋だったのだろう。 もうあのようには愛せないとしても、 その感情の名残だけは、 心のどこかに残しておきたいと思う。
愛とは何なのか