感じることと、起きていること ― 認識と事実について

はじめに

距離や時間のスケールを整理し、人類史を長い時間の中に置いてみると、最後にどうしても残る問いがある。
それは、私たちは何を「事実」として生きているのか、という問いだ。

起きていることと、感じていること。
認識と事実。
この二つは、しばしば同一視されるが、本当に同じなのだろうか。


速度

長さを時間で割ると速度が出る。

地球は自転しながら、秒速約466mで回っている。
同時に、秒速約30kmで太陽の周りを公転している。
太陽自身も回転し、銀河の中を高速で移動している。
放送衛星は静止しているように見えるが、実際には秒速3000mで動いている。
宇宙ステーションは秒速約7660mで地球を周回している。


表4 回転/進行速度

天体・対象自転速度公転・進行速度
地球秒速466m秒速29.8km
秒速4.64m秒速1.01km
太陽秒速1,890m秒速220km
放送衛星秒速3,000m
宇宙ステーション秒速7,660m

それでも、私たちはこれらの運動をほとんど感じない。


感じない=動いていない、ではない

動いているからといって、感じるとは限らない。
感じないからといって、動いていないわけでもない。

感じることと、起きていることは別だ。
認識することと、事実であることは一致しない。

このズレを徹底的に疑う方向に進んだのが、デカルトであり、
現象そのものを記述しようとしたのが、フッサールだった。
実存に向かった思想家たちもいる。

しかし、こうした哲学史的整理はここでは重要ではない。
重要なのは、私たちが生きている現実が、認識を通過した現実だという事実である。


コロナという現象

新型コロナウイルスの流行は、「事実」と「認識」の関係を露わにした。

コロナが起きても、それを感じなければ、起きていないのと同じになる。
逆に、コロナが起きていなくても、それを感じれば、起きていることになる。

もちろん、これは極端な言い方だ。
しかし、過去に同様の感染症が存在し、それが十分に認識されなかった可能性を否定することはできない。

さらに重要なのは、コロナが「起きた後」と「起きる前」では、
同じ自己、同じ社会、同じ制度ではいられなくなったという点だ。

そしてそれは、コロナがなくても、自己や社会は変わっていた可能性がある、
ということでもある。


変化は本当に加速しているのか

この半世紀、あるいはこの1世紀、2世紀を振り返ると、
変化のスピードが加速しているように感じられる。

だが、それは「感じている」だけかもしれない。

地球が誕生して46億年、宇宙が誕生して138億年。
その中で、ここ10年、20年、200年の変化を、
特別視しすぎている可能性はないだろうか。

変化が加速していないことを証明するのは難しい。
しかし、加速していると断言することもまた、簡単ではない。


イリュージョンとパラノイア

認識は、ときに幻想になる。
夢想、幻影、妄想、偏執。
それらが極端に進めば、パラノイアと呼ばれる状態に至る。

デジタル技術によって、複数のインターフェイスが同時に存在する現在、
現象とイリュージョンの境界は、以前より曖昧になっているように思える。

事実だと信じているものが、
単に「強く共有された認識」にすぎない可能性もある。


極小の世界

今回は、距離や時間で「0を増やす」方向の話をしてきた。
だが、忘れてはならないのは、10のマイナス30乗や40乗という世界も存在することだ。

分子、原子、電子、クォーク、プランクスケール。
それらもまた、数値としては理解できるが、実感はできない。

実感できないという点では、
宇宙の果てと、極小の世界はよく似ている。


結語

桁外れのスケールは、確かに存在する。
近現代の人類史が、白人・プロテスタント・資本主義優位であったことも否定できない。
しかし、それは永遠ではない。

事実と、それを感じること。
認識と、起きていること。
それらは同じではない。

事実は変わる。
真実も変わる。
あるいは、変わったように感じられるだけかもしれない。

それでも、地球は回っている。
感じなくても。


What do you think?

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です