4巨人との対話④ サルトルと私ー「自由」を引き受けすぎないという判断

ジャン=ポール・サルトルは、私にとって最も「理解しやすい言葉」で語る思想家かもしれない。
自由、責任、不安――その語彙自体は、私にもなじみ深い。

まず、サルトルの立場を整理しておく。

彼の出発点は明確だ。
本質は実存に先立つ」。
人間はあらかじめ定められた本質を持たず、選択と行為によって自らを形づくる存在である。
その結果、人間は「自由という刑に処せられている」になる。
自由である以上、そこには必ず責任が伴う。

選ばないことも選択であり、
沈黙も態度であり、
距離を取ることさえ、責任から逃れられない。

サルトルは、主体をどこまでも引きずり出す。
そしてその姿勢は、戦後ヨーロッパにおいて強烈な倫理となった。
「逃げるな」「選べ」「お前が引き受けろ」。
この重たい自由の倫理こそが、彼を時代の思想的支柱にした。

だが、ここに私との決定的な違いがある。

① 自由から「降りる」ことを認めない点

サルトルは、自由から降りることを許さない。
どんな場合でも、主体は引き受け続けねばならない。

私は、そこまで引き受けない。
一線は越えない。
というより、越える理由がない。
距離を取ることを、私は判断として認めている。

サルトルは自由を免責しない。
私は自由を絶対化しない。

② 政治と関与の距離

サルトルは、知識人は政治に関与せよと言った。
沈黙は加担であり、中立は幻想だと。
そのため彼は、マルクス主義に接近し、社会運動に発言し続け、立場を表明し続けた。

私は逆だ。
社会を壊さない代わりに、政治の当事者にもならない。
これは逃避ではない。
「政治の当事者にならない」という選択であり、私なりの距離の取り方だ。

③ 不安の扱い方

サルトルにとって、「不安」は自由の証明であり、倫理の核である。
不安を引き受け続けること、それ自体が生の姿勢だ。

私は、不安をそこまで神聖化しない。
不安は判断材料ではあるが、深めすぎないほうがいいものだと思っている。
不安に留まり続けることを、美徳だとは考えない。

サルトルは言う。
自由を背負え。
関与せよ。
引き受け続けろ。

私はこう考える。
自由は重要。
だが、賭けない。
距離を取ることも、ひとつの選択だ。

その一点において、
私はサルトルと決定的に違う。