ハン・ガンの散文集『すべての、白いものたちの』所収「白熱灯」に、
「我々は永遠を手に入れることができないという事実だけが慰めだった日など、なかったように。」
という一節がある。
私は当初、「永遠を手に入れることができないという事実」は慰めではなく、むしろ無念ではないかと思い、この一節がすぐには腑に落ちなかった。
二重否定や反語、述部の不在も理由だが、無意識のうちに「永遠」の主語を、幸福や命として読んでいたからだろう。幸福や命が永遠でないことは、慰めにはなりにくい。
一方で、悲しみや苦痛であれば、「永遠には続かない」という事実は確かに慰めになりうる。(誰がおめでたい人やねん!)
この一節が示しているのは、悲しみは永遠ではないという思考が、かつては確かに「慰め」だったにもかかわらず、その慰めが成立していたという事実そのものが、時間の中で保存されなかった、ということではないか。
「事実だけが」「日など」という細部に注意を払えるようになると、「慰め」がただ消えた、という言い方では終われなくなる。
「なかったように。」という言い切りは、単に忘却を示すのではない。
当時の悲しみが消えたのではなく、意味づけや感情の形を失い、別のものへと移転し、変転していく過程そのものを暗示しているように思える――「すべての白いものたち」へと。
必然、この文末は、タイトル『すべての白いものたちの』の「の」の文法的解釈、すなわちその先に何が来るのか、という問いへと視線を導く。(何も続かない、それがハン・ガンの世界)
この一文に執着している自分が、言葉にされた感情や意味だけでなく、それらを言語化しようとした痕跡さえも回収してしまう地点の、すぐ周縁に立っていることに気づいた。
危うく引き込まれそうになり、一瞬、ヒヤリとした。