運転技術のない人がスポーツカーをもらっても、しょうがない。
運転技術があっても、交通事情(渋滞や凸凹道)が悪ければ、しょうがない。
仮に運転技術があり、交通事情が良くても、速度制限などの交通法規が厳しければ、しょうがない。
交通法規が許しても、交通事故を起こしてしまっては、しょうがない。
交通事故を起こさなくても、大気汚染で呼吸困難になれば、やはりしょうがない。
どこまで行っても、キリがない。
テクノロジーや制度は、性能や数値を高めればそれで良い、というものではない。
アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、
「同じ財を持っていても、人によって実際に使える範囲は異なる」
という、ごく当たり前だが見落とされがちな事実から出発する。
たとえば、
ガザ地区の避難者と日本の避難者、
健康な人と障害のある人、
男性と女性、
大人と子ども、高齢者。
同じ資源、同じ制度が与えられても、それを使って「生きられる可能性」は大きく異なる。
胃ろうの人にごちそうを差し出しても、しょうがない。
人の境遇や身体、思考や環境によって、その人にとって本当に必要なもの、
その人に幸福をもたらすものは違う。
功利主義が「幸福の総量」を見よと語り、
正義論が「最悪の立場に置かれる可能性のある自分」を想像せよと促すなら、
ケイパビリティ・アプローチは、
「その人は、実際に何ができ、どのように生きられるのか」
という地点に、私たちの視線を引き戻す。
基本的にエゴの塊であるミクロの私が、マクロの理想を考えるのは、
高尚な倫理のためではない。
それは、自分が引き受けきれない重荷――
罪悪感や後ろめたさ――を、少しでも軽くして生きるための、
私なりの処世術なのだろう。
写真:モン・サン・ミッシェル