私のイデオロギー3

運転技術のない人がスポーツカーをもらっても、しょうがない。
運転技術があっても、交通事情(渋滞や凸凹道)が悪ければ、しょうがない。
仮に運転技術があり、交通事情が良くても、速度制限などの交通法規が厳しければ、しょうがない。
交通法規が許しても、交通事故を起こしてしまっては、しょうがない。
交通事故を起こさなくても、大気汚染で呼吸困難になれば、やはりしょうがない。

どこまで行っても、キリがない。
テクノロジーや制度は、性能や数値を高めればそれで良い、というものではない。

アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、
「同じ財を持っていても、人によって実際に使える範囲は異なる」
という、ごく当たり前だが見落とされがちな事実から出発する。

たとえば、
ガザ地区の避難者と日本の避難者、
健康な人と障害のある人、
男性と女性、
大人と子ども、高齢者。

同じ資源、同じ制度が与えられても、それを使って「生きられる可能性」は大きく異なる。

胃ろうの人にごちそうを差し出しても、しょうがない。
人の境遇や身体、思考や環境によって、その人にとって本当に必要なもの、
その人に幸福をもたらすものは違う。

功利主義が「幸福の総量」を見よと語り、
正義論が「最悪の立場に置かれる可能性のある自分」を想像せよと促すなら、
ケイパビリティ・アプローチは、
「その人は、実際に何ができ、どのように生きられるのか」
という地点に、私たちの視線を引き戻す。

基本的にエゴの塊であるミクロの私が、マクロの理想を考えるのは、
高尚な倫理のためではない。
それは、自分が引き受けきれない重荷――
罪悪感や後ろめたさ――を、少しでも軽くして生きるための、
私なりの処世術なのだろう。
写真:モン・サン・ミッシェル

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