家族の肖像(ヴィスコンティ)

大学生の時以来、約50年ぶりに観た。
当時はほとんど理解できておらず、記憶にも残っていなかった。
そもそも原題 ”Conversation Piece” が、美術用語で「家族の肖像画」を意味することすら知らなかったのだから、最初から見当違いの道を歩いていたのだと思う。

『家族の肖像』において、
教授は、旧家・資産家・知識階級という属性を背負い、ヨーロッパそのものを象徴する存在として描かれる。そこには、ミラノの名門貴族に生まれたルキノ・ヴィスコンティ自身の投影も重なって見える。
伯爵夫人は、資本主義と経済力の象徴であり、文化を消費はするが理解しない存在として、いかにもスノビッシュだ。
その娘と婚約者のカップルは、革命や革新思想に口先だけでかぶれ、実存してはいるが、未来を担うだけの中身を持たない新世代として描かれる。

そして中心人物であるコンラッドは、本来であればヨーロッパの未来を背負うはずの人物だ。知見もあり、文化への理解もある。だが彼は、どこにも定着できず、未来を引き受けることができない。浮遊し、実存しない存在として描かれ、物語の中で死に至る。
ヴィスコンティは、ヨーロッパの行き着く先を「死」として示そうとしたのだろう。

この映画を語るには、制作時からすでに半世紀が経っているという時間差を考慮しなければならない。当時ヴィスコンティは、滅びゆくヨーロッパを「家族の肖像画」として描こうとしたのだろう。

しかし現実の歴史は、単純な没落図式にはならなかった。
ヨーロッパは踏みとどまり、かつて先頭を走り対立していた米露はそれぞれ別の問題を抱え、日本は高度成長の後に長期低迷へと向かった。後進国の追い上げも、予想されたほどではなかった。
結果として、ヨーロッパに限らず、すべての地域がそれぞれの問題を抱えて現在に至っている。少なくとも、ヨーロッパが経済的にも文化的にも完全に没落したとは言えない。

今回あらためて観て、ヴィスコンティの美術、脚本、そしてアフレコを含めた繊細な職人芸を純粋に楽しむことができた。何より、最後まで飽きなかった。大学生の時は、正直、退屈してしまったのだ。

これは自分の成長もあるだろうが、それ以上に、事前に文脈を整理しながら観ることができた影響が大きい。映画は、今も昔も、情報や参照枠がなければ十分には味わえないものなのだと、あらためて思った。

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