4巨人との対話 ③ カミュと私―「不条理」と距離をたもつという判断

アルベール・カミュは、「不条理」を次のように定義した。
意味を求める人間と、 意味を与えない世界との衝突。
重要なのは、不条理が「世界そのもの」にあるのではなく、
人間と世界の関係の中に生じるという点だ。
人間は意味を求める。 それをやめることができない。
一方で、世界は沈黙している。 永遠に、何も答えない。
このズレは偶然ではない。 構造的であり、修復不能だ。
だから不条理は「克服されない」。
この前提に立つと、私たちは

・無意味
・目的なし
・神なし
という条件のもとで生きることになる。
カミュが最も警戒したのは、
この不条理を「解決しよう」とする態度だった。
・意味があるはずだ。
・いつか分かるはずだ。
・救いがあるはずだ。
そう言い出した瞬間、それは事実に反する希望になる。
カミュはこれを「哲学的自殺」と呼んだ。
世界に意味をねじ込むこと
―― 宗教、形而上学、救済思想。
逆に、人間の意味要求そのものを殺すこと
―― ニヒリズム、感覚の麻痺。
どちらも、不条理そのものを直視していない。
現実からの逃避にすぎない。
『シーシュポスの神話』において、 岩は最後まで意味を持たない。
シーシュポスは絶望を出発点にするが、
それを否定も肯定もしない。
ただ、
生き続ける。
逃げない。
和解しない。
意味をでっちあげない。
それでも生きる。
カミュにとって最大の罪は、
見えているものを、見えないふりをすることだった。
不条理は、解決されるべきものではない。
維持されるべきものだ。
私は、不条理の世界を確認したうえで、
意味をでっちあげることもしないが、
そこから先へさらに思考を進めもしない。
意味を発明しない。
救済を要請しない。
だが、不条理を否定もしない。
この距離感は、冷たさとも言える。
同時に、自己防衛でもある。
私は、カミュの反抗の温度を 上げようとはしない。

What do you think?

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です