前回、「閾値」について考えた。
人間の能力や生活状態は連続している。しかし社会制度を運営するためには、どこかに線を引かなければならない。
その結果、閾値のすぐ外側に、制度的な支援は受けられないけれど、社会が要求する「普通」をこなすことにも苦労している人たちが生まれる。
では、そういう人たちを私たちはどう見るのか。
ここで思い出すのが、ジョン・ロールズの「無知のヴェール」である。
ロールズは『正義論』の中で、公正な社会制度を考えるための思考実験として「無知のヴェール」を提示した。
自分が社会の中でどのような立場になるのか分からない状態で、社会のルールを考える。
裕福なのか貧しいのか。どのような家庭に生まれるのか。どのような能力を持っているのか。
それが分からないとしたら、私たちはどんな社会を選ぶだろうか。
もちろん、ロールズの正義論にはさまざまな批判がある。マイケル・サンデルなどの共同体主義者からも、その人間観や「負荷なき自己」をめぐって批判されてきた。
ここで、その哲学的論争に立ち入るつもりはない。
私が面白いと思うのは、「無知のヴェール」をもっと日常的なところへ持ってくることである。
いわば、「思いやりのリマインダー」として使う。
もし自分が、たまたまその能力を十分に持っていない側だったら?
マニュアルが苦手な側だったら。
スマートフォンを使いこなせない側だったら。
人の意図を読み取れない側だったら。
何度説明されても、情報を処理しきれない側だったら。
ヴェールの向こうでは、自分がどちら側になるか分からない。
私たちは、自分ができることを基準にして、他人を見てしまいがちである。
自分には簡単にできる。
だから、相手にもできるはずだ。
できないのは努力が足りないからだ。
しかし、そこで一度だけ「無知のヴェール」をかけてみる。
もし、自分ができない側だったら。
そう考えるだけで、
「なんで、こんなこともできないんだ」
という言葉が、少なくとも一瞬、
「この人には、何が難しいんだろう」
に変わるかもしれない。
もちろん、それだけで制度が変わるわけではない。
困っている人が救われるわけでもない。
すべてを許容しなければならない、という話でもない。
ただ、人を見るときの最初の視線が少し変わる。
それだけでも意味はあると思う。
ロールズの「無知のヴェール」は、公正な社会制度を考えるために提示された壮大な思考実験である。
それをずいぶん小さなところに持ってきてしまった。
しかし私は、ときどきこのヴェールを日常でかぶってみてもいいと思う。
自分が、たまたま「できる側」にいるだけかもしれない。
それを思い出すために。
