高級ホテルや飛行機のビジネスクラスを利用しようとすると、いつも少し疑問を感じる。
(高級ホテルやビジネスクラスを予約しているわけではない。😆)
価格は数倍になっても、宿泊や移動という基本的な機能が数倍になるわけではない。では、その大きな価格差に対して、人はいったい何を買っているのだろうか。
一つの見方は、贅沢品とは「機能の限界効用が逓減した先にある商品」だというものだ。
ホテルなら、ある程度の金額を払えば、清潔な部屋、快適なベッド、シャワー、便利な立地といった基本的な機能は手に入る。それ以上の金額を払っても、眠りが価格に比例して良くなるわけではない。
飛行機も同じである。ビジネスクラスの料金がエコノミークラスの3倍だからといって、3倍速く目的地に着くわけではない。
一定の水準を超えると、追加料金で買うものは、機能から別のものへ移っていく。
より高い快適性。
手間や不確実性の削減。
希少性。
ステータス。
自己満足。
儀式性。
そして、物語。
言い換えれば、
安価な商品では「機能」を買い、中価格では「快適さ」を買い、高価格になるにつれて「意味」を買う。
ここでヴェブレンの「顕示的消費」が登場する。
ソースティン・ヴェブレンは、人間の消費は必要性や実用性だけでは説明できないと考えた。
高級時計、高級車、豪邸、高級ホテルなどでは、「高価であること」「誰でも利用できるものではないこと」そのものが価値になる。それを所有したり利用したりすることで、自分の富や社会的地位を他人に示すことができる。
さらに彼は「顕示的閑暇」という考え方も提示した。
かつての有閑階級にとって、「働かなくても生活できる」こと自体が社会的地位の証明だった。
現代でも、長期休暇、高級リゾート、平日の余暇など、「自由に使える時間」が豊かさを示すことがある。
つまり、消費だけでなく、時間までステータスになる。
しかし、ここで逆の疑問が生じる。
本当にステータスの高い人ほど、ステータスを顕示する必要があるのだろうか。
たとえば孫正義氏のような巨大な富と社会的地位を持つ人物を考えてみる。もちろん、本人が実際に何を考えているかは分からない。
しかし、このクラスの人がプライベートジェットに乗ったり豪邸に住んだりするとき、それは必ずしも「自分は金持ちだ」と他人に示すためではないだろう。
乗れるから乗る。
必要だから使う。
選択肢として、自然にそこにある。
ステータスを獲得しようとしている段階では、高級消費がその地位を示す手段になる。しかし、すでに誰もが認める地位を獲得してしまえば、わざわざそれを示す必要がなくなる。
ここには一つの逆説がある。
究極のステータスとは、ステータスを顕示する必要がないことなのかもしれない。
そう考えると、高級品を求める理由を単純に「見栄」や「優越感」だけで説明することはできない。
では、自分自身は何を基準に消費しているのだろう。
カフェで飲めば500円のコーヒーも、家なら50円もしない。
同じコーヒーなら、残りの450円で何を買っているのかを考える。
場所なのか。
サービスなのか。
雰囲気なのか。
それらに450円の価値を感じればカフェで飲むし、感じなければ家で飲めばいい。
高級ホテルも同じである。
1万円のホテルから5万円のホテルに変えたとき、追加の4万円で何を得るのか。
それが単に豪華な内装や丁重なサービスだけなら、私にとっての価値はそれほど高くない。
しかし、ここに「初めての体験」が加わると、判断は変わる。
すでに知っているホテルより、まだ泊まったことのないホテル。
すでに知っている都市より、まだ行ったことのない都市。
メルボルンやアデレードも魅力的だが、まだ知らないパースがあれば、まずパースに惹かれる。
どうやら私は、価格の高低とは別に、「未知であること」そのものに大きな効用を感じている。
だから、50円のコーヒーを選びながら、飛行機代を払って地球の反対側まで行くことに矛盾はない。
節約そのものが目的なのではない。
自分にとって価値の低いものには使わず、価値の高い経験には使う。
結局、贅沢とは価格では決まらないのだろう。
機能の限界効用が逓減した先には、「意味」の市場がある。
ある人にとっては所有。
ある人にとってはステータス。
ある人にとっては快適さ。
そして、ある人にとっては未知の体験。
何が贅沢なのかを決めるのは、値札ではない。
その人が、何に価値を感じるかなのである。
