できてしまう人

トランプ政権の制裁を受けたICC(国際刑事裁判所)所長の赤根智子氏と、1974年に『自動車の社会的費用』を刊行した宇沢弘文氏。まったく関係のない二人だが、私には一つの共通点があるように思えてしまう。

できてしまう人

赤根智子氏や宇沢弘文氏の経歴を見ていると、ときどき不思議な感覚になる。もちろん、これはこの二人に限った話ではない。たまたま今、思い浮かんだのがこの二人だった、というだけである。

二人が努力をしなかったということではない。勉強もしただろうし、仕事にも力を注いだはずである。ただ、私には、世の中には「必死に何かを勝ち取る」というより、普通に成長し、普通に学び、普通に仕事をしているうちに、高いところまで行ってしまう人がいるように見える。

大学入試でも、資格試験でも、仕事でもそうだ。

たとえば同じ試験で、ある人は1000時間勉強してようやく合格し、ある人は100時間で受かる。さらに別の人は1000時間やっても届かないかもしれない。

そこで、「合格した人は偉い」「不合格だった人は努力が足りなかった」、あるいは「頭が悪かった」と単純に考えてしまうのは、少し違うように思う。

ある人にとっては、何年もかけて必死に努力してようやく届く場所が、別の人にはそれほど大きな障壁ではない。理解する速さ、記憶する力、考える力、数理的理解力、集中力、判断力、対人能力。人にはさまざまな能力差がある。

これは、努力を否定する話ではない。

努力することには意味があるし、努力によって伸びる部分も大きい。しかし、同じだけ努力すれば同じところまで行ける、と考えるのも現実とは少し違うように思う。

さらに言えば、努力を続ける力そのものにも個人差がある。集中力や忍耐力、自己管理能力まで含めれば、「努力」と「能力」を完全に切り離すことも難しい。

だからこそ、社会はもう少し能力差というものを冷静に見てもいいのではないか。

能力の高い人を妬む必要もないし、能力の低い人を怠けていると決めつける必要もない。それぞれにできることと、できないことがある。

そしてもう一つ、「足るを知る」という考え方もある。

誰もがより高い学歴、より高い地位、より多くの収入を目指さなければならないわけではない。自分の能力や性格を知り、自分に合った場所で、それなりに満足して生きる。それも一つの生き方である。

能力差を認めることは、人を序列化することではない。

能力の違いと、その人の人間的な価値や善し悪しとは、切り離して考えた方がいいのではないかと思う。

できる人は、できる。
できない人には、難しいこともある。
努力で届くこともあれば、届かないこともある。

できる人を称賛し、できない人を理解する。

そして、能力や環境の違いが結果の違いにつながることを認めるなら、社会で得られた成果のすべてを「本人の努力の結果」と考える必要もなくなる。恵まれた能力によって多くを得た人が、その一部を社会に戻すことも、少し自然に考えられるようになる。所得の再分配も、単に「持っている人から取って、持っていない人に与える」という話ではなくなる。

それぞれの違いを認め、それぞれが無理なく生きられるように支え合う。その延長線上に、格差や対立を少しでも減らす道があり、さらにその先には、争いの少ない社会や世界もあるのではないか。

そんな視点が、もう少しあってもいいのではないかと思う。