「困窮者たち」と社会――まず「存在を認識する」こと

人間の能力には大きな個人差がある。

それは単純な「頭の良し悪し」ではない。

言葉を理解する力、文章を読み取る力、数字を扱う力、記憶する力、複数の情報を同時に処理する力、計画を立てて実行する力、人との関係を調整する力、感情を制御する力、新しい仕組みに適応する力。

人間には、実にさまざまな能力がある。

そして、一人の人間の中でも、それらは均等ではない。あることは平均以上にできても、別のことは非常に苦手ということもある。

重要なのは、こうした能力が「できる/できない」と明確に二分されるものではなく、連続しているということである。

ところが、社会制度はどこかに線を引かざるを得ない。

一定の基準を満たせば障害として認定され、さまざまな支援を受けられる。しかし、その基準には該当しなくても、現代社会を一人で生きていくために必要とされる能力が十分ではなく、困難を抱えている人たちがいる。

しかも、現代社会が個人に要求する能力はかなり高い。

行政や福祉の書類を読み、制度を理解して申請する。銀行口座や金銭を管理する。賃貸契約や雇用契約を理解する。医療機関を予約する。交通機関を利用する。

そして現在では、スマートフォン、パスワード、本人認証、オンライン手続きまで扱わなければならない。

デジタル化はその典型だが、問題はデジタルだけではない。

紙の申請書であっても、制度を理解し、必要な情報を集め、期限を守り、適切に手続きを完了させるには、いくつもの能力を組み合わせなければならない。

多くの人には、それが「普通にできること」に見える。

だから、できない人を見ると、

「努力が足りない」
「だらしない」
「なぜこんな簡単なことができないのか」

と評価してしまいがちである。

しかし、そこには本人の性格や努力だけではなく、能力差が関係している可能性がある。

そして厄介なのは、明らかな障害がある人だけではないことである。

社会が想定する「普通」の範囲には入っている。しかし、その下方の境界付近にいて、社会生活のある場面で大きな困難を抱える人がいる。

もっとも、「境界にいる人」という固定した集団が存在するわけでもない。

能力は多次元だからである。

ある人は文章を理解することには困らないが、人間関係の調整が難しいかもしれない。別の人は人付き合いには何の問題もないが、複数の手続きを順序立てて処理することが苦手かもしれない。

つまり、人間の側に絶対的な境界があるのではなく、それぞれの能力と、社会が要求する水準との間に境界が生まれる。

ここで、すぐに「では、どう救済するのか」という制度論へ進む必要はないと思う。

その前に必要なのは、認知と理解である。

人間の能力にはさまざまな差がある。

そして、社会が要求する水準にわずかに届かないために、外からは見えにくい困難を抱えている人が確実に存在する。

まず、その事実を社会が認識する。

何かができない人を見たとき、すぐに本人の努力、性格、自己責任の問題として片づけず、

「この人には、ここが難しいのかもしれない」

という視点を持つ。

今回の思索は、まずそこまででいい。

救う方法を考える前に、これまで見えていなかった人たちがいることに気づく。

それが出発点だと思う。

私は、こうした人たちをひとまず「困窮者たち」と呼んでみたい。

もちろん、経済的な意味での困窮者ということではない。

社会が当然のように要求する「できること」と、自分の「できること」との間に生じた隙間で、困っている人たち。

その存在を認識するところから、考えてみたい。

画像:ギャラップ社の「ストレングスファインダー」における34の資質。画像は八木仁平氏公式サイトより引用。