最後、誰に頼むのか?④一人世帯の連携

しかし、「共居」さえ必要なのだろうか。

すでに住むところを持っている。一人暮らしにも困っていない。それぞれに生活習慣もある。

だったら、それぞれの家を手放してまで、一緒に暮らす必要があるのだろうか。

同居しない。

共居もしない。

それでも、つながることはできる。

そこで考えたのが、「一人世帯の連携」である。

近くに住んでいるに越したことはない。しかし、インターネットが発達した今なら、離れていてもビデオ通話で顔を見ることができる。

毎日顔を合わせる必要はない。毎日連絡する必要さえない。

それぞれが自宅を持ち、一人で暮らす。

普段は干渉しない。自分の生活をする。旅行にも自由に行く。

時々ビデオ通話をする。時々実際に会う。たまには一緒に旅行する。

助けを必要としないときは、それぞれが普通に暮らしていればいい。

しかし、いざというときには助け合う。

しばらく連絡がなければ確認する。体調を崩したら動く。入院すれば必要なものを届ける。

本人が動けなければ親族に連絡する。場合によっては本人と親族との間に入る。専門家や医療・福祉につなぐ。親族だけでは対応できない部分があれば、できる範囲で補う。

もちろん、できることには限界がある。

これは、互いに介護を引き受ける関係ではない。

まして、相手の人生に責任を負う関係でもない。

自立している間は、それぞれに暮らす。

必要なときだけ、できる範囲で助け合う。

そういう関係である。

当然、ある程度の信頼は必要だろう。

しかし、「この人なら絶対に大丈夫」という絶対的な信頼や愛情を前提にする必要もないのではないか。

人間関係は変わる。信頼が揺らぐこともある。裏切られることもある。どちらかが病気になることも、先に亡くなることもある。

信頼や愛情は大切だが、永遠を保証されたものではない。

だから、一人の誰かにすべてを託すのではなく、家族、友人、専門職、公的支援など、それぞれにできることを組み合わせ、足りない部分を補えばいい。

家族がいても疎遠な人がいる。

未婚の人もいる。離婚した人もいる。配偶者に先立たれた人もいる。子どもが遠方に暮らしている人もいる。

逆に、法律上は赤の他人でも、長年付き合っている友人がいる。

そう考えると、家族という単位だけで、高齢期の支え合いを設計する必要はないのではないか。

家族が個人化したのなら、支え合いもまた、家族だけを単位に考えなくていいのかもしれない。

「血は水よりも濃し」が真ならば、時には水が血よりも濃いこともあるのではないか。

大勢の仲間をつくる必要もない。

一人でも、二人でもいい。

一人暮らしをやめたくない人間が、一人暮らしを続けるために、ほかの一人世帯と緩くつながる。

孤独は守る。孤立は避ける。

「一人世帯の連携」。

そんな暮らし方や連携も、案外現実的なのではないだろうか。