しかし、「共居」さえ必要なのだろうか。
すでに住むところを持っている。一人暮らしにも困っていない。それぞれに生活習慣もある。
だったら、それぞれの家を手放してまで、一緒に暮らす必要があるのだろうか。
同居しない。
共居もしない。
それでも、つながることはできる。
そこで考えたのが、「一人世帯の連携」である。
近くに住んでいるに越したことはない。しかし、インターネットが発達した今なら、離れていてもビデオ通話で顔を見ることができる。
毎日顔を合わせる必要はない。毎日連絡する必要さえない。
それぞれが自宅を持ち、一人で暮らす。
普段は干渉しない。自分の生活をする。旅行にも自由に行く。
時々ビデオ通話をする。時々実際に会う。たまには一緒に旅行する。
助けを必要としないときは、それぞれが普通に暮らしていればいい。
しかし、いざというときには助け合う。
しばらく連絡がなければ確認する。体調を崩したら動く。入院すれば必要なものを届ける。
本人が動けなければ親族に連絡する。場合によっては本人と親族との間に入る。専門家や医療・福祉につなぐ。親族だけでは対応できない部分があれば、できる範囲で補う。
もちろん、できることには限界がある。
これは、互いに介護を引き受ける関係ではない。
まして、相手の人生に責任を負う関係でもない。
自立している間は、それぞれに暮らす。
必要なときだけ、できる範囲で助け合う。
そういう関係である。
当然、ある程度の信頼は必要だろう。
しかし、「この人なら絶対に大丈夫」という絶対的な信頼や愛情を前提にする必要もないのではないか。
人間関係は変わる。信頼が揺らぐこともある。裏切られることもある。どちらかが病気になることも、先に亡くなることもある。
信頼や愛情は大切だが、永遠を保証されたものではない。
だから、一人の誰かにすべてを託すのではなく、家族、友人、専門職、公的支援など、それぞれにできることを組み合わせ、足りない部分を補えばいい。
家族がいても疎遠な人がいる。
未婚の人もいる。離婚した人もいる。配偶者に先立たれた人もいる。子どもが遠方に暮らしている人もいる。
逆に、法律上は赤の他人でも、長年付き合っている友人がいる。
そう考えると、家族という単位だけで、高齢期の支え合いを設計する必要はないのではないか。
家族が個人化したのなら、支え合いもまた、家族だけを単位に考えなくていいのかもしれない。
「血は水よりも濃し」が真ならば、時には水が血よりも濃いこともあるのではないか。
大勢の仲間をつくる必要もない。
一人でも、二人でもいい。
一人暮らしをやめたくない人間が、一人暮らしを続けるために、ほかの一人世帯と緩くつながる。
孤独は守る。孤立は避ける。
「一人世帯の連携」。
そんな暮らし方や連携も、案外現実的なのではないだろうか。
