家族の個人化
1960年から2025年にかけて、家事事件の新受件数は約34万件から約123万件へ増加した。
人口に対する割合でみても、0.356%から1.001%へ、約2.8倍になっている。
さらに、裁判所の全新受事件に占める割合は、6.2%から31.7%へ上昇した。
では、これは「家族の争いが増えた」ということなのだろうか。
それほど単純ではない。
家事事件には、離婚、婚姻費用、養育費、面会交流、遺産分割など、家族間の意見や利害が対立する事件がある。
一方で、相続放棄、成年後見など、必ずしも誰かと誰かが争っているわけではない手続も含まれている。
したがって、家事事件が約3倍になったことを、そのまま「家族の係争が3倍になった」と考えることはできない。
それでも、この増加は何かを示しているように思う。
1960年ごろの日本では、結婚して家族をつくることが標準的な人生の形と考えられ、家族内部の問題は、できるだけ家族の中で処理するという意識も強かった。
それから65年。
結婚しない生き方も、離婚することも珍しいものではなくなった。家族の形そのものが多様になっている。
同時に、夫婦、親子であっても、一人ひとりは独立した個人であり、それぞれに自由と権利があるという考え方も広がった。
家族だから我慢する。
家族だから従う。
家族の問題だから外には出さない。
そうした考え方だけでは処理されなくなってきた。
夫婦間の生活費、離婚後の養育費、子どもとの面会、親の介護や財産管理、そして相続。
かつてなら家族内部で処理されていた問題についても、必要であれば第三者や法律、そして裁判所によって調整する。
家族の問題が、個人の権利の問題として扱われるようになった。
これは「家族が壊れた」とだけ捉えるべき変化ではないだろう。
むしろ、家族という集団の中に埋め込まれていた個人が、それぞれ独立した存在として扱われるようになった、と考えることもできる。
私はこれを、「家族の個人化」という変化の一つとして捉えたい。
①でみたように、裁判事件の総数そのものは減った。
②では、その中身が大きく変わり、刑事・少年事件中心から、民事・行政・家事事件中心へと構成がほぼ逆転していることをみた。
そして家事事件の増加の背景には、高齢化や制度の変化とともに、こうした家族そのものの変化もあるのではないだろうか。
犯罪や非行を裁く司法から、個人と個人の関係を調整する司法へ。
65年間の裁判事件の変化を眺めていると、日本社会そのものの変化が少し見えてくる。
