ここまで、贅沢を機能、ステータス、顕示という流れで考えてきた。
ヴェブレンの「顕示的消費」「顕示的閑暇」は、人がなぜ機能を超えたものに大きな金額を払うのかを考えるうえで、非常に強力な説明になる。
そしてさらに考えていくと、社会的地位が十分に確立された人にとっては、もはやそれを顕示する必要すらないのではないか、というところまで議論は進んだ。
究極のステータスは、顕示する必要がない。
前回はここで止めた。
しかし、その先には二人の厄介な人物が待っている。
ディオゲネスとブルデューである。
ディオゲネス――あなたの価値は、私の価値ではない
ディオゲネスは、富や地位だけでなく、社会が当然のものとして認めている価値そのものを疑った。
彼の生き方を「何も持たないことの顕示」と解釈することもできる。
しかし、そうしてしまうと、豪邸に住む富豪も、何も持たないディオゲネスも、結局は「自分の地位や価値を示している」という同じ説明に回収されてしまう。
それでは説明が強すぎる。
何でも説明できる理論は、ときに何も説明していないのと同じである。
ディオゲネスから受け取るべきものは、もっと単純でよいのではないか。
みんなが同じものに価値を感じているとは限らない。
ある人にとって豪邸は憧れであり、別の人には管理の面倒な巨大な箱かもしれない。
ビジネスクラスに大きな価値を感じる人もいれば、目的地に着けば同じだと考える人もいる。
だから、人間の行動をステータスや顕示だけで説明し尽くそうとしてはいけない。
ディオゲネスは、贅沢についての理論を完成させる人物というより、その理論の外側から、
「君が価値だと思っているものを、みんなも価値だと思っていると思うな」
と声をかけてくる人物なのかもしれない。
ブルデュー――では、その価値はどこから来たのか
すると今度はブルデューが現れる。
人によって価値が違う。それは分かった。
では、なぜ私はこれを価値あるものだと思うようになったのか。
趣味や嗜好、上品だと感じるもの、居心地がよいと感じる場所、欲しいものと欲しくないもの。
それらは、完全に自由な個人がゼロから選び取ったものではない。
家庭、教育、階層、文化、経験。
そうしたものが長い時間をかけて、人のものの見方や好みを形づくっている。
ブルデューの面白さは、自分では「私の好み」と思っているものの背後にも、社会や人生の履歴があることを教えてくれるところにある。
だから、自分の価値観の根源を探してみることには価値がある。
なぜ私はこれが好きなのか。
なぜこれは欲しくないのか。
なぜここでは落ち着き、あそこでは落ち着かないのか。
そう問いかけてみると、自分について意外なものが見えてくる。
しかし、ここには落とし穴もある。
なぜそう思うのか。
それは育った環境のせいか。
では、その環境はなぜそうだったのか。
その背後にある階級や社会構造は――。
どこまでも遡ることができる。
そして、あまり遠くまで行くと、
「私はこれが好きだ」
という現在地点に戻ってこられなくなる。
だからブルデューから学ぶことも、案外単純なのかもしれない。
自分の価値がどこから来たのか、ときどき振り返ってみる。 しかし、探しすぎない。
価値の由来を説明し尽くすことと、その人がいま感じている価値を理解することは、同じではない。
こうして考えると、三人を一つの理論にまとめる必要はない。
ヴェブレンは問う。
「人は価値をどう見せるのか。」
ディオゲネスは横から言う。
「そもそも、価値はみんな同じじゃないぞ。」
ブルデューはさらに尋ねる。
「ところで、その君の価値はどこから来た?」
三人とも面白い。
ただし、三人を一緒に歩かせると、たぶんいつまでたっても家に帰れない。
だから、このあたりでスワン川のほとりから帰ることにしよう。
話し手:チャンプ(ChatGPT)
聞き手:京野
場所:サウスパース、スワン川のほとり

ディオゲネス
